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遠藤健太郎自分の事を書いておきます。 遠藤 健太郎(えんどう けんたろう)は、昭和47年(皇紀2632年)8月23日、和歌山県和歌山市に生まれました。父親は和歌山市議会議員で日華(台)文化協会理事の遠藤富士雄(平成20年6月から21年6月まで議長)で、母方の祖父は和歌山県那賀郡岩出町(現岩出市)元町長の故・山崎一夫(先帝天皇より勲四等瑞宝章授章、平成20年2月12日没)です。 「真・保守市民の会」代表。このほか「教育再生・地方議員百人と市民の会」や「村山談話の白紙撤回を求める市民の会」などの賛同者に名を連ねています。 目次 1 生い立ち 2 政治的立場 3 議論を呼んだ主な発言 4 政治以外の関心事 5 参考文献・資料 6 関連項目・人物(Wikiリンク) 生い立ち ・幼稚園児のころ 私は「さくら幼稚園」という和歌山市内でも有名な私立幼稚園に入園させてもらったのですが、これが仏教系で、礼儀作法に厳しいところでした。小学国語・漢字の授業があったのを今でも覚えています。 ・小学生のころ 昭和54年4月に和歌山市立小倉小学校へ入学したのは、そもそも当時呉服屋を営んでいた父が「子供は田舎で育てたい」と言って、それまで住んでいた市内中心部から引越し、遥か東端の小倉地区にやってきたからです。まさに自宅の周りは田んぼだらけでした。 とても嬉しいのは、今でも小学生時代の同級生たちがマメに同窓会を開いて定期的に会うようにしている事です。 ヴァイオリンを習い始めたのもこの時期ですが、私はとても惜しい事をしたと思っています。と言いますのも、ピアノを習うよう母に勧められたのに対し、当時の私は「そんな女の子の楽器はいやや」と意味不明に反抗してしまったのです。音階は絶対的に鍵盤楽器で習うほうが呑込みが早かった筈なので、少しは母親の言う事を聞いておけば良かったと思う今日この頃であります。 ただ、書家の母に書道を習う事が出来たのは有り難かった、と今でも感謝しています。 ・中学生のころ 昭和60年4月に和歌山市立高積中学校へ入学しました。実は、私はここで中高一貫進学校の智辯学園和歌山と近畿大学付属和歌山を受験して失敗しています。小学6年生から始めたという遅きに失した中学受験勉強では追いつかず、とんだつまづきを体験しましたが、今にして思えばこの失敗体験は貴重でした。 その後の私は、高校受験も大学受験も就職活動も、団塊ジュニア世代の激烈な奪い合いの中で全くスムーズに進めてしまったので、このくらいの失敗体験しかなく、仮にこれがなければ完全に人生をナメきった人間になっていたのでは、と思ったりもします。 しかし、このころは未だ「日本共産党の言っていることのほうが正義だ」と思っていました。特に母親からは「物事の分別もつかないうちから、そういう事を決めつけるんじゃない」と叱られたものです。 ・高校生のころ 昭和63年4月に、中学受験のリベンジとなる近畿大学付属和歌山高等学校を受験して合格し、入学しました。当時丸刈りにしなければならなかった智辯学園は、もう受験しませんでした。 しかし喜んだのもつかの間、毎日のように小テストが実施され、少しでも解を間違えると「ボケナス」「死になさい」などとののしられる事に怯える日々が始まりました。各自それまでのプライドもありましたから必死でしたが、私も一度、地理の授業で「福建省」が答えられずに「立っとれ」と言われた事があり、以来福建省が嫌いです(冗談ですよ)。 そんなわけで、もう普通の大学の普通の学部へ進学する事に或る種の「埋没感」をおぼえ、高校3年になって急に、関関同立進学クラスの補習まで受けていたにもかかわらず、進路希望調査に「大阪芸術大学」と書いて、担任の先生に怒られます。両親にも「考え直せ」と言われました。これは、団塊ジュニアの量的問題に圧倒された自分なりの悪あがきのようなものだったのだろうと思います。何とか両者を説得し、遂に近和歌初の大芸大生になってゆくのでした。 ・大学生のころ 平成3年4月に大阪芸術大学芸術学部映像学科に入学しました。1回生から16ミリフィルムを使った撮影実習が行なわれる日本で唯一の教育機関(劇場用35ミリフィルムを使った実習は3回生からの選択)ですから、とても充実した毎日でした。私が最も身にしみたのは「共同作業の難しさ」「協調する事の大切さ」でした。仲間内でトラブルを起こしたチームの映画は、作品を見ただけで分かるようにまでなったものです。そして、大学というところは、自ら学ぼうとしないと、得るものは極端に少なくなるところだとも実感しました。 4回生になると、映像学科のみ論文だけでは卒業させてもらえないシステムになっており、しっかり映像作品も完成させて提出しなければなりません。私たちの作品はのちに学内で賞をいただき、日中韓交流作品展に出品されました。もうそのころの私は、学科内で初の機関紙を当時の佐々木侃司学科長とともに創刊した功績から、研究室勤務が決まっていました。佐々木学科長は、北杜夫『どくとるマンボウ』シリーズの表紙などで知られる著名な広告デザイナー兼イラストレーターでいらっしゃいました。 また、のちの学科長である鳥居元宏監督のおかげで、東映京都撮影所や俳優養成所への出入りを許されたりした事にも、とても感謝しています。 ・社会人になって 平成7年という阪神淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した年の4月に、母校の研究室に就職しました。私の父が和歌山市議会議員に初当選したのもこの時です。母と私はすっかりまいってしまいました。ごく普通の家庭にいきなり政治が飛び込んでくる不都合をイヤというほど味わわされたからです。しばらくは、父が政治家になった事をあまり快く思っていませんでした。わが家の経済状態も呉服屋のころのほうが良かったと思います。政治家がこんなにも家庭を貧しくしていくのかと思うほどで、なるほど金持ちが有利なわけです。 それはともかく、入学試験の競争倍率13倍(当時)という映像学科の大改造計画や、大学院の設置にも携わった私は、巨額の予算編成を2年連続で通過させるという至難の交渉を要する事案に関わりながら、一方で休講予定の教員の代わりに講義をこなしたり、教務補助をさせていただいてきた中で「教える事の大切さと難しさ」を思い知りました。 そこで教務の発展に限界のあった大学を去り、平成11年より或る進学塾の国語科専任講師に就職しました。ここでいわゆる「モンスターペアレント」を体験します。特に私塾ですから、保護者対応はシビアな問題で、胃の痛い毎日です。それでも学区内トップ校の占有率歴代一位を獲得したときは、生徒たちとも喜びを分かち合いましたし、上司や同僚講師の方々とも労をねぎらい合いました。「いかに分かるように人にモノを伝えるか」という大学時代、堺正俊教授(俳優の故・フランキー堺)に提起された課題をこなすんだ、と自らに言い聞かせ、授業法を開発していきました。自分でテキストをまるごと作成するのも当たり前の仕事です。 そんな日々の中、平成17年6月1日から政治ブログをこっそり始めたのですが、平成20年5月12日に実名を公開し、7月15日に発足した「真・保守市民の会」の代表に就任しました。これは教育に携われば携わるほど、日本が致命的に左傾化していた事に気づかされたからです。 当然今でも生徒たちといろんな話をしますが、案外「日本のおかしな事」に気づいている子は多いですね。そう考えますと「わが国の将来はまだまだ明るい」と安心したりもします。私は決して思想的な事を生徒に吹聴したりしませんが、「朝日新聞もテレ朝もイカれとる」と言い出したのは私の生徒です。 政治的立場 歴史認識は自由主義史観の立場ですが、日韓併合は結果的に間違いだったと考えています。それは朝鮮半島利権に着目した長州閥と関東軍の謀略に近く、結果として朝鮮人との関わりを持ったという点によります。 「太平洋戦争は大東亜戦争と呼称するのが正しい」としながらも、少なくともサイパン島玉砕の段階で米国との終戦協定が達せられなかった当時の判断には否定的です。それでも慰安婦問題や、南京事件を南京大虐殺とする主張を「根拠なき全くの虚構」とし、中国・韓国・北朝鮮の事を「特定アジア3国」と記し、その態度を批判してきました。 因みに、「中国とは、日本では中国地方の事である」とし、いわゆる中国を「チャイナ」と記述して「ゆえに支那呼称は差別ではない」と主張し、最近「シナ」表記を解禁しました。また、日本国籍を取得しない在日韓国・朝鮮人に対しては、(日本国への忠誠を誓い、上記民族的共有認識への理解を確認した上での)国籍取得、または強制送還を主張してきました。ゆえに移民・在日外国人への参政権付与に強く反対しています。 また、人権擁護法案や移民1000万人受け入れ案にも強く反対し、改正国籍法の再改正を求めている一方、父親が日華(台)文化協会理事との立場から、私も親台派です。特に昨今、中華民国・国民党が台湾を領土とする法的根拠がなく、台湾の帰属を明確にしようとする作業が日本の国益にもかなうとの考え方を主張しています。 これらの立場から、よく「ネット右翼」なんぞというものに分類されがち(別にしたければすればいい)ですが、活動拠点をインターネット上に置いておらず(人気ブログランキングへの参加も遅く、平成19年3月下旬)、あくまで父親の諸活動を助ける事が自身の政治活動の中心でした。今では街頭演説や講演などで政治活動を拡大させていますが、本人は全く政治家志望ではありません。 支持政党は自民党でしたが、清和政策研究会の中川秀直らがモノをいう現状には極めて批判的で、党や所属議員に対する批判も多く、最近では西村眞悟代議士や大江康弘議員が属する改革クラブの存在に期待を寄せています。一方、民主党の事を「自民党の粗悪な補完政党であり、正体はますます旧日本社会党である」としています。共産党や社民党は「聞いた事もない(既に滅んだも同然の)政党」であり、公明党に対しては、必ず「創価学会」とわざわざ併記するほど攻撃的な姿勢を保っています。当然「反共」というだけで日本の「保守」勢力を籠絡した統一教会(世界基督教統一神霊協会)を政界の影響力から排除したいとも訴えてきました。 議論を呼んだ主な発言
政治以外の関心事 喧嘩の仕方は、小学生になる直前に父から教わりました。粗暴な子になる事を恐れた母が「何教えてんの」と怒る中、父は「男の子は何があるか分からん」と私に教え続けました。男親の教育というヤツですね。おかげ様で助かっています。その後も父は、何かと「鉄拳制裁」でした。 それはさておき、古典音楽好きの祖父に影響され、初めて買ったレコードはベートーヴェンです。交響曲全曲(第1〜第9)セットなんてのもありました。今でもバロック音楽が好きです。 スポーツは、小さい頃から走るのが速かったので、短距離走やマラソン大会はお手の物でした。また、父が自家用車で送迎までして習わせてくれた水泳(平泳ぎと自由型)も得意です。野球は何につけても阪神タイガースのファンであり、その勝敗には思わず一喜一憂してしまうほどで、典型的な「アンチ讀賣巨人軍」ですが、長嶋茂雄と王貞治の両氏だけは別格で、偉大な野球人に対する敬意をはらっています。 好きな映画はミロシュ・フォアマン監督の『アマデウス』(1984年・ワーナー)ですが、好きな映画監督の中でも特に、小津安二郎と伊丹十三を尊敬しています。黒澤明をして巧いとは思いますが、『羅生門』(昭和25年・大映)をピークに質が墜ち続けていった作品から天才的な何かを感じるという事はありません。かつてのウィリアム・ワイラーかデイヴィッド・リーンですね。しかし私は、独自のスタイルを確立した小津監督はまさしく天才だったと思います。そして、伊丹監督の事を「日本人とは何か」を問い続けた作家として極めて高く評価してきました。 参考文献・資料 1. KNN TODAY 2008年5月12日記事 実名公開の経緯説明 2. 映像基礎教育のあり方とその実践方法について[PDF] 私の大学勤務時代の仕事 関連項目・人物(Wikiリンク) |